ニコニコVS憮然

女性はいつもニコニコが顔に張り付いている。

これは感情をうまく表現できなくなっているのだ。

だが、男性のほうはしかつめらしく、ぶすっとした表情のことが多い。

つまり、愛想のよくない顔だ。

なんといっても男性は、責任ある立場であって、この文化においては大きな決定権を持つとされている。

男友達のサムに「元気?」ときいたとき、彼は撫然として答えた。

「元気。サイコー。宝くじでハワイ旅行が当たったんだ。生まれてから、こんな嬉しいことないよ。舞い上がってる」

この言葉の問じゅう、完壁に無表情なまんま。

もし、表情をどれかに固定したいのなら、しかめっ面でないほうがいい。

顔が笑顔のまま凍りついている場合なら、少なくともものを食べるときには、顔の筋肉が下に下がるから、多少の上下運動になる。

おかあさんに、そんな仏頂面をしていると、顔がそのままになっちゃうわよ、と言われたことがあると思う。

それは実は本当だ。

アメリカで女性が男性より八年長生きするのは、女性がこの笑顔を貼りつけて歩きまわっているからではないかと思う。

日本でも女性が長生きなのはヒーリング 東京のようなスピリチュアルなものに敏感だからですかね?

昭和から平成へ 5

マツシタ、ホンダ、ソニーなどの著名な企業はいうまでもなく、日本の経済を支える大部分の企業が廃嘘の跡から徒手空拳に近い企業家の努力によって、わずか数十年間に世界的な企業となったのだ。

これほど人材が自由闊達に生きわずかな期間に世界的な事業を興した時代はないであろうし、結果としてこれほど、身分や出身、学歴に関係なく人々が活躍した時代も少ないであろう。

その意味で日本の歴史を見ても、戦後は稀有なほど野心と創意に満ちた時代だったのではないか、と思う。

しかし、この企業の隆盛に比較して企業の中で黙々と働いた庶民は本当に報われたのだろうか。

サラリーマンが一生働いて、運が良くても、猫の額ほどの土地と家が財産のすべてである。

それも通勤に一時間も二時間もかかる。

ろくに休みも取らず働き続け、そのあげく厚生年金の支給開始の年齢が、やがて六五歳まで延びるという。

なんということだ。

戦後、経済の再建に向けて、男たちは兵士のようにがむしゃらに働いた。

経済だけでなく、日本人の寿命も伸びましたよね。

昭和から平成へ 4

男は職を求あて東京に出てきた。

高度成長期には、毎月残業が一〇〇時間近くなった。

だが働いただけの時間外手当をもらった記憶はないし、病気のとき以外に休みなどほとんどなかった。

だが働いても生活は楽ではなかった。

自転車といえば、男は長男が四歳のとき、真新しい自転車をボーナスから工面して買ってやった。

ところがこの自転車がすぐ盗まれた。

男にはもう新しい自転車を買ってやる余裕はない。

そんなとき、新聞のチラシ広告に"処分自転車を安く売り出す"という記事を見つけた。

男は電車に乗って中古の「訳あり自転車」を女房と買いに行ったのだ。

自分の大事な息子を乗せる自転車が盗品か、置き忘れの中古なのか、男は甲斐性のなさを恥じたのだ。

たった一台の自転車が自転車でとどまれない、そんな物語がテレビにも、洗濯機にも冷蔵庫にもあるのだ。

"国、企業豊かにして、民貧し"というのが、男の偽らざる実感ではある。

戦後、日本が世界一級の経済大国になったことは疑いようもない。

たしかに国そのものは経済的に豊かになったものの、人の心はそうでもないように思いますね。

昭和から平成へ 3

会社に入って宴会になっても、男たちの同期生は軍歌なぞ知らない、歌わない人間がほとんどだった。

自転車はいまにして思えば特別のものだった。

中学に入ったばかりの頃自転車を持つのはまだ高嶺の花であった。

現在の中国のように、まだ大人が自転車で通勤し、バタバタと大きな音を出す原動機付きの自転車が大人にとっても憧れの頃だ。

子供たちはみんな自転車に憧れていた。

ある日、学校の仲間が自転車を買ってもらったと友達にみせびらかした。

その男の子の家は裕福な家ではないので、皆が唖然としたのだが、やがてそれは盗難車だ、とわかった。

新聞に自転車泥棒の記事がでる時代であった。

不幸にして彼の場合は友人も学校も知るところとなり、小さな田舎町のことで、少年はグレ、やがて家族そろって故郷を出た。

以来同窓会に姿を見せることもない。

たった一台の自転車が彼の人生を変えたのだろうか、と捨てられた自転車を見て、男は感慨にふけるのだ。

イタリア映画『自転車泥棒』が同じ敗戦国の庶民の悲哀を描き、共感されたのは当然であった。


今、『自転車泥棒』なんて知っている人、少なくなってしまったんだろうな…。

昭和から平成へ 2

ボロボロの服を着て、栄養失調のせいか、あかぎれで手を腫らし、青鼻を垂らしていたけれど、日本が新しい平和国家に生まれ変わった年の、ピカピカの一年生だった。

食う物もろくになかったが、奇妙に明るく、以来「戦後の民主主義教育は俺たちの時代から始まった」というのが男たちの誇りであった。

もう二、三年上の兄や姉は、敗戦の日を境に先生や大人の言うことや、やることが一夜で変わるという、世の中に信じられるものがない現実を知ってしまった世代だが、わずか数年の違いで、男たちは"新しい時代が来る"というのを、まともに信じた世代であるかもしれない。

それにしても、アメリカは輝いていた。

アメリカの豊かさ、民主主義は、それこそ目の眩むような衝撃だった。

日本人の上に君臨していたマッカーサー連合国軍最高司令官がトルーマン大統領と意見が対立し、あっさり首になったのをみたとき"民主主義というのはこんなものか、なんと日本と違うのか"と教室で教師も生徒も驚嘆したのだ。

まさに、昭和は戦争と、戦争から立ち上がった日本、という時代のような気がします。

昭和から平成へ 1

昭和から平成へ。

あまり変わりがないようで、ものすごく世の中が変わったように思います。

一月八日平成元年の初日、男はいつもの日曜日と同じように昼近くまで寝坊をして、テレビをつけた。

日曜日のささやかな楽しみはテレビなのだが、テレビは昨日と同じ追悼番組一色である。

男は駅前のビデオショップに足を向けた。

ビデオショップの中はごったがえし、若い客のほかに、男のような中年も多い。

男は男なりに感傷的になっているのか、戦争直後に見た懐かしい洋画を何本か借りた。

商店街も住宅地も弔旗をたてる店や家はまれである。

帰り道、道路端に粗大ゴミの山が溢れている。

"なんと、真新しいものが惜しげもなく捨てられるのか"と、男は戦争直後の事を思い出し、ついゴミの山の前で足を止めた。

テレビ、洗濯機、冷蔵庫、それに豪華なソファーやベットに混じって、まだ乗れそうな自転車が二台も押しつぶされている。

"贅沢な。

いつか罰が当たるぞ"。

男は言いようのない腹立たしさと空しさを感じたのだ。

男たちは昭和二一年、新制の小学校に入学した。

生協の歴史 8

生協の「理念の危機」の背景のひとつは、生協の性格の変化があげられます。


まず、なんといっても生協が発展した結果、生協組織そのものが強く大きくなってきたことであり、そこから問題が出てきています。


生協はもともと弱者の自助組織から出発しました。


しかし、生協は今日、そういうものであり、またありうるのかどうか。


これをめぐって論議がなされています。


組織そのものが拡大し、強大化してきた・・・これがなんといっても重要なひとつの背景でしょう。


これとともによく指摘される点があります。


例えば、今日の灘神戸生協のやっていることと、スーパー「ダイエー」のやっていることと、どこがどれだけ違うのか、現実には大差ないのではないか、つまり、株式会社とどのくらいの差があるのか、という議論が出てくるのです。


ヨーロッパでも、別の面から同様の事態が生じてきています。


ヨーロッパでは生協は、歴史も古いだけに体質も古いのです。


そこに新進のスーパーが登場してきました。


あるいは国外から進出してきました。


こうして急変する流通機構と、激化する市場競争のなかで生き残っていくために、生協は、多くは集中しながらしのぎを削らざるをえず、外見には市中のスーパーと大差ないものになっているのです。


これらが今日の生協理念の動揺のひとつの重要な背景といえます。

生協の歴史 7

今日の議論は、1930年代の議論とも60年代のそれとも異なったものです。


生協自体の存在理由が問われているのです。


生協の、文字通り「理念」そのものが問題となってきています。


レイドロウのいう「思想上の危機」です。


そして、西欧諸国では一般に生協運動は停滞してきています。


フランスの生協は最近、壊滅状態になろうとしており、ドイツの生協は次々に株式会社批しています。


日本では生協が伸展しているときに、生協生誕の地であるイギリスでも生協は凋落の傾向をたどっています。


実際、生協とはいったい何か、生協は今日どういう意味をもっているのかを、根本的に問い直さなければならない時代にきているといわなければならないでしょう。


今日の生協のこの「理念の危機」には、基本的に少なくとも2つの背景があると思われます。

生協の歴史 6

第2次世界大戦までは、共産圏はソ連邦一国で、しかもスターリン体制を強力に推進していましたが、いまだ完全にでき上がっていたとはいえない状態で、大量の粛清のもとに国づくりをしていました。


ソ連邦という国がはっきり確立して、強大になったのは第2次大戦後です。


さらに、第2次大戦をもって、ソ連の軍隊が進駐した東ヨーロッパの国々と中国が共産圏に加わり、マルクス・レーニン主義をいただく共産圏は世界をニ分する一大勢力になりました。


ロシアとなってからも、その陸地面積は世界の3分の1に及び、人口では3分の1をはるかに越える勢力です。


中国が約11億人、ロシアが約2億7千万人、それだけで約14億人になるのです。


この共産圏でも多くの国に生協があり、それらがICAに加入してきますが、これらの国はマルクス.レーニン主義を奉じ、一党独裁という特定の政治体制をもっていたため、世界の生協が政治的中立をうたうのでは具合が悪かったのです。


つまり、政治・社会体制にかかわる問題が生じてくることになります。


これは生協にとって非常に重要な問題でした。


そして、「中立」原則が背後に退き、妥協が成立ます。


いわゆる「ロッチデール原則」の修正によって新しい原則ができあがったのですが、これも生協のあり方にかかわる理念問題でした。

生協の歴史 5

1つには恐慌のなかでの生協の経営問題、もう1つにはICAの加入資格の問題から、生協原則について数年論議が重ねられたのち、1937年にそれが世界的に確認されてきたのです。


これが最初の理念論争だったといえます。


理念論争は1960年代にいたって再燃しました。


今度はことの始まりはソ連から生じました。


ソ連邦も協同組合を広範にもち、ICAに加入しています。


そのソ連邦の協同組合から議論が起こってきたのです。


当時、ソ連はマルクス・レーニン主義という特定のイデオロギーをもっていましたが、ICAの基本原則の第5には「政治的・宗教的中立」という条項がありました。


組合は宗教だけでなく政治にも中立であって、特定の政治とか政治イデオロギーと結んではならないというものです。


この条項はソ連にとって不都合でした。


このため、1963年、ソ連から修正動議が提出され、論議ののち、1966年にようやく妥協が成立したのです。


その結果、「政治的・宗教的中立」が削除され、代わりに生協の「国際的な連帯」をうたう条項、生協は国際的にお互いに連帯していき、協力しあっていく、という条項が入ってくることになりました。

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